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大阪府建築士会誌『建築人』への寄稿文です。「改修(リフォーム)」の経験がこれからの住まいの設計に大切なことを書かせていただいています。少し長くなりますが、お読みいただけると幸いです。

はじめに − 改修を通じて −

 私はいま「改修」の設計監理を中心に活動しています。これまでも改修に取り組んできましたが、その可能性を実感しはじめたのは最近になってからです。この場を借りて、今まで自分なりのスタンスで改修に取り組んできて感じたことを述べます。
 私は設計の仕事を始めてから、祖母や両親の住まいの改修に取り組んだり、設計事務所の勤務時に担当者として公団住宅や宿泊施設の改修に関わるなど比較的「改修」に縁があったように思います。もともと建築設計のど真ん中で仕事をしていましたが、2003年から4年間、建築士として大手住宅リフォーム会社に身を投じることになりました。そもそも「改修」に対して特別意識することなく身を投じたわけですが、この4年間が自分の仕事に対するスタンスを大きく変える事になります。そこには業界でNo.1 と言われる相当数の「改修」が現実的にあり、私個人もその間約500件の相談を受け、約150件の既存家屋を調査、設計し、そのうちの50件の改修工事を手掛けてきました。それらを通して量的に関わることでしか成しえなかった、改修の問題点と可能性を実感することができました。現在私はその実感をいかにクライアントに、そして建築に還元していくことが出来るのかと考えながら活動しています。


「フローからストックへ」を「実感」する世代

 1966年に制定された「住宅建設計画法」に基づいて、量と最低限の質を確保することを目的に住宅が供給されてきました。そして私たちを取り巻く社会の変化に伴い、2006年「住生活基本法」が制定され、住宅の供給政策は「フローからストックへ」と大きく舵を切ることになりました。 実はこの時間的流れは、筆者の生い立ちとまさに合致していて、同時に住宅を取り巻く環境における「変化」を自らの体験をもって思い起こすことができました。つまり、大工の建てた民家から文化住宅、建売やハウスメーカー住宅、団地、マンションまで、現代の住環境のめまぐるしい変化を、身をもって体験し、その体験を通した変化を「建築に携わる者」として振り返った時、住宅を通じ生み出される新しい可能性に気付き、取り組んでいけるのではないのかと考えました。そして私と同じ世代は自らの体験をもとに「フローからストックへ」の変化を「実感」でき、「改修」に取り組むのにふさわしい世代ではないかと感じます。


「改修」がもつ問題点

 2003年当時、悪徳リフォーム事件が多数紙面を賑わせており、消費者にとって「改修」そのものが大きな不安要素となっていました。「何をもって安心を担保すればよいのか」という隠れた消費者心理が存在し、安心を担保するのは「大手住宅リフォーム会社」しかないという消費者が圧倒的多数を占めることになっていました。改修を誰に頼むのかという選択をする時に、「大手というブランド」と「何らかの不都合があった時の為の資本」が「安心を得るための条件」となっていました。そして大手がそれに応えるために改修の抱える問題点について「商品開発」という名の相当の努力をしていることを目の当たりにして私は大変ショックを受けました。このことが「大手」を「改修」の選択肢にしていた要因であるし、当時「大改造!!劇的ビフォー&アフター」という番組で「建築家=匠」と取り組む「改修の多様性」を取り上げブームになっていたにも関わらず「匠の改修」を大手に託そうとする消費者が多かった事に、設計事務所や工務店を含めた小規模な会社が、消費者にとって安心を担保する選択肢になりえていないという問題も明らかにしていました。しかし、そういった状況の中でも大手の手がける改修には確実に「少しの我慢」が存在していました。
 その我慢とは「質」の問題です。ここで私が言いたい「質」とは、既存との相性や適性を考えた材料や工法の選択肢が限定されているという問題、建材の規格寸法から決まるプランの問題、「既存」という膨大な情報を整理し決定していく上でのコミュニケーションのとり方とその時間の無さの問題です。
 私はこの「質」の問題に様々な観点から取り組む事によって、「ブランド」と「資本」に対抗することなく、互いに補完し合いながら、住まい手の安心と満足を確保し「ストックを活用する」為の多様性を受け入れるとともに、可能性を広げる事ができるのではないかと思います。


「改修」が開く可能性

 ではなぜその相当数の住まい手は、我慢をしながらも「改修」する動機を持ち、自分たちの住まいについて「改修」を選択することになったのでしょうか。 それは、都市部において問題点となる「法律」と、人間の根源的な感覚である「愛着」この二つが大きな要因であると私は考えています。
 「法律」の問題は、いわゆる「新築できない」であるとか「新築すると小さくなる」という理由が圧倒的に多く、簡単にいえば「新築できない」は、悪質な開発や無計画な分筆により接道していない土地を生んだ結果です。「新築すると小さくなる」とは現状の土地に対する道路後退線や建ペイ率の問題です。どちらも負の要素が強い動機ですが、これらの理由を軸にストック活用が進んでいることは何とも皮肉なことです。
 次に「愛着」の問題です。一つは「家そのものへの愛着」、そしてもう一つは「地域への愛着」です。
 近代以降私たちは住宅について様々なものを数値化して表わそうとしてきました。必要のないものまで数値化してきた結果、住宅の性能や品質は数字で表わすことのできるものだけが顕在化し、それ以外のものは見過ごされてきたように思います。特に新築というカテゴリーにおいてその傾向は強く、住環境を創造するという意味では同じ「改修」を計る価値観までもが、この新築を基準に行われているのが現状ではないでしょうか。
 しかし、改修を選択する要因の大きなものに「愛着」があるという事に、私自身は可能性があると感じています。さらに言うなら、住環境の変化を身をもって体験している私たちの世代の建築家が取り組む改修にこそ、可能性があるのではないかと感じています。現代の住環境の変化を身をもって体験している世代の建築家。ここでいう建築家とは「物事を整理しまとめ、+ αを創造する能力のある設計者」とあえて定義しますが、クライアントが「愛着」という曖昧な思いを「既存」に仮託している状況を読み取り、整理し、まとめ、+ αを創造する能力こそ建築家の職能であり、それが改修の可能性を広げることのできる最大の武器だと考えています。


新しいイコールパートナーシップの構築

 改めて感じるのは「改修」は簡単ではないという事です。新築とは違い現実に存在する「既存」を様々な観点から読み取らなければなりません。前段でも触れたとおり、私は「改修」にこそ、より多くの建築家の参入の必要性を感じます。改修に取り組むうえでは机上の計画のみでは実現は不可能です。では、その不可能を可能にするために何が必要なのでしょうか。
 それは、既存に向き合い「考える力」を発揮する建築家と、既存に向き合い「つくる力」を発揮する施工者という新しいイコールパートナーシップではないかと考えています。誤解を恐れずに例えるならば、表層のデザイン論や机上の計画論のみで改修が進められれば、設計と施工の間には「既存」という大きな問題やギャップを前にして、「図面にあるからこうしろ」「図面にあったからこうした」的なクライアント不在の設計施工間の問題が噴出することになるのではないかと思います。それは最終的に「建築家価格」なるコストの問題へと波及し、コストを負担する消費者は「建築家」と取り組む改修を選択しなくなるのではないでしょうか。そうならないためにも、設計と施工の壁を越えたイコールパートナーを構築して、計画ごとにクライアントと共にコミュニケーションをとりながら、最終的にクライアントを含めたイコールパートナーを創りあげた上で「改修」を進めていくことが必要ではないかと考えています。


クライアント側から見るストック

 では「改修」を進めるクライアントはストックをどう見て、どう感じているのでしょうか。
 戸建住宅については既存建物の構造的不安から、また他人が使用したという中古感覚から、改修して移り住むという対象にまだなっておらず、流通商品としての既存戸建住宅の活用が大きく広がるのは難しいのではないかと思われます。その反面、既に所有している既存に対して「この家に住む、この地域に住む」という思いや「家族にとってのかけがえのない家」に対する思いを託して「改修」に取り組むクライアントはとても多いと感じます。マンションについては、工法として安心であるという感覚と、集団で住むという心理的なものが構造面での不安を漠然と和らげているように思います。また長期修繕という共同でメンテナンスをするマンション特有の制度が、安心を担保する形として有効に働いていて、住戸自体もスケルトン−インフィルの概念が広く受け入れられ、「自分らしさ」を取り入れやすい点もあり、移り住む対象としての流通商品として選択肢に入ってくるのではないでしょうか。


「改修」が産み出す大切なもの

 さらに今まで私が経験した「改修」を「建築を通じたコミュニケーション」という点から見てみたいと思います。 改修には必ずその対象となる「既存」があり、改修に着手する時点ですでにクライアントはその既存に対して思いをめぐらせています。設計の段階からクライアント自身が既存から問題点を見つけ出し、いかに自分らしく、そして気持ちよく住むことができるのかについて考えています。要望には単純なものから無理難題なものまでありますが、その中には確実に様々なかたちでの「既存に託した愛着」が存在していることを実感することができます。
 実際に施工の段階に入ると、その愛着故かクライアントは現場によく足を運び、そこにいる職人に声をかけ、労をねぎらってくれます。子供達は職人から感じる緊張感やプロとしての仕事ぶりに目を見張ります。すると職人たちはおのずと自分なりの心意気と職能でお返ししようとします。クライアントは完成に近づくに従いその中にあるイメージと建築家の発想、実物との誤差に楽しさを見出し、自分では想像できなかった+ αの発想に感心する事になります。そういったコミュニケーションの中でクライアントは私たち作り手と相互に信頼関係を築き、安心と愛着を獲得しているのだと実感することが出来るのです。
 こういった出来事は、工業化されたプロセスの住宅の現場からは見ることができなくなった、素晴らしい出来事であり、「改修」を通じて見ることができる本来の「建築ごと」で、今後の住まいのありかたや、クライアント、私達の価値のあり方にとって、とても大切な要素であると私は感じています。


最後に − 住まいを愛でる心の芽生えへ −

 耐震偽装問題を発端に建築士の信用が失墜し、それを国が担保する形で、建築基準法や建築士法が改正されました。そのことについては様々な観点から議論されていますが、私が思う事は、この流れを「改修」というカテゴリーに波及させてはならないという事です。
 そうなる前に私たち専門家は一人一人が自覚をもって「改修」に取り組まなければならないと思います。
 「考える者」「つくる者」という垣根を越え、共通の目的のもとに一所懸命さや真剣さ、プロ意識の中にお互いの理解を深め、信頼関係を築きながら取り組むことによって「改修」を本来の「建築ごと」へ戻していく。そのことで初めてクライアントは建築に携わる者を尊敬し、信頼することができ、そして「改修」に安心して取り組めるのではないでしょうか。
 クライアントは「改修」を通じて生まれた住まいに対する愛着を、親子で分かち合いながら住んでいくことになるでしょう。そして子供たちの中には独自の愛着が湧き、住まいを大切にしていくでしょう。それらは子供たちに「住まいを愛でる」という素晴らしい心を芽生えさせ、住まいへの愛着を通じて得た、家を大切にするという振る舞いとして現われてくるのではないかと思います。
 そして、その芽生えた心や振る舞いが、さらなる住まいへの愛着へと繋がり、親から子へ、子から孫へと思い出と共に住み継がれていく。これらの流れすべてが、根底の部分での建築教育となって30年後50年後に、私達世代の祖父母が教えてくれたような「住まいを大切にするこころ」として残ってくれれば、こんなに素晴らしいことはないし、日本の未来は明るい!と思います。
 最後に、私の考える「これからの住まいのかたち」は、いわゆるスタイルではなく、「改修」を通じての行為そのものであり、それを通じて生まれる住まいへの愛着だと思います。
 そして、その住まいへの愛着は将来、多様で深みのある「住まいのかたち」を次世代の手によって私達に示してくれるのではないかと考えています。

kenchikujin No.539 2009.05 『建築人』 文責:進藤勝之